ハイレゾ Ambisonics 作品の制作秘話:江夏 正晃氏
世界初の高次 Ambisonics (アンビソニックス) アルバムをリリース予定の江夏正晃氏による講演。IEM Plug-in Suiteを使ったアルバムの制作やミックスについての解説やノウハウの伝授だけに留まらず、Ambisonicsの現状や、将来の可能性についてまで網羅した非常に貴重な講演。一般的な2chステレオとイマーシブの制作では、必要なテクニックや課題となるポイントは、似た部分もあれば全く異なる部分もある。音質、音圧、ダイナミクスなど、最良のイマーシブ作品にするためには何が重要なのか。クリエイターならではの着眼点で、より具体的な目線からイマーシブ・オーディオを解いてゆく。
MI7グループ主催のセミナーイベント「Media Innovation Workshop vol.2」
「最先端の音響で、全てのビジネスを一歩先へ。」
第2回目となる2019年5月、イマーシブ・オーディオ(立体音響・没入型サラウンド)に関するワークショップが国内3箇所で開催された。
現在、音楽だけなく様々な業界でニーズが高まっている「イマーシブ・オーディオ」。今回は、イマーシブの現場の最前線で世界的に活躍される3名が登壇された。
ORFオーストリア放送協会のフローリアン・カメラー氏、”サラウンド将軍” Mick沢口氏、そして、日本初のAmbisonicsアルバム制作者 江夏正晃氏。各講師より、イマーシブに関連する基礎知識や録音/再生技術、また制作した作品の紹介や、より実践的なノウハウについてお話し頂いた。
講師
江夏 正晃
株式会社マリモレコーズ 代表
marimoRECORDS Official site
音楽家、DJ、プロデューサー、エンジニア。エレクトロユニットFILTER KYODAIやXILICONのメンバーとして活動する一方、多くのアーティストのプロデュース、エンジニアなども手掛ける。また株式会社マリモレコーズの代表として、映画音楽、CM、TV番組のテーマ曲など、多方面の音楽制作も行う。ヘッドホンやシンセサイザーのプロデュースなども手掛け、関西学院大学の非常勤講師も勤める。著書に「DAWではじめる自宅マスタリング」(リットーミュージック)などがある。
はじめに
「今から1年前の時点では、皆さんよりもイマーシブについて詳しくなかったと思う」という言葉からセッションをスタートさせた江夏氏。昨年のInterBEE 2018の際にIEM Plug-inの開発者・ダニエル氏と出会い話をしたものの、知識が追いつかず内容が理解できなかったのだそうだ。その後、Mick沢口氏に「君の作品でイマーシブをやってみないか」と声を掛けられたことがきっかけで、今回の登壇に至ったのだと語る。
サラウンド・多チャンネルについては、既に映画など多くの作品の制作を経験している江夏氏。ステレオ作品に比べて可能性は大きいものの、限界を感じていた。音のスピード感や音の中抜け、定位感が上手く行かないなど数々の苦労があるサラウンド作品。今回の挑戦では、それらに対するアプローチとして、「PIANO Pieces」というアルバム名の通りピアノ曲による展開を行った。たった1〜2分の1曲につき約2GBもの容量を誇る、7次Ambisonicsの作品。22曲入りのアルバム1つで、なんと30GBにも及ぶ。
「どうせやるなら、エポックメーキングなものを。」そう考えた江夏氏は、Synthax Japan 伊藤氏と共に試行錯誤を繰り返し、このアルバムの制作に取り掛かった。軽い気持ちで始めたものの、そこには様々な困難とチャレンジがあった。
そうしてやっとの思いで出来上がった作品が、本ワークショップの名古屋会場で初公開されたのだ。
イマーシブ・オーディオとは
音には次の種類がある。点音源の「モノラル」、2つのイメージを持つ「ステレオ」、二次元に広げた「サラウンド」。それに高さ(Hight)が加わったものが「イマーシブ・オーディオ」と総称されるようになった。実際は、DTS-X、Auro-3D、Dolby Atmosなど、様々なフォーマットが展開されている。
江夏氏は3年前にDolby Atmosの作品を手掛けるオファーを受けている。しかし、Dolby Atmosはフォーマットが決まっており、再生環境が整っている場所でないと作品を視聴することが叶わない。Dolby Atmosの再生システムは、一般家庭には少々高額で、手が届きにくいこともあり、多くの方に作品を楽しんでもらうことは現実的に難しい。当時は、まだイマーシブ作品への挑戦には、非常に高いハードルが存在していた。
もしかすると、Ambisonicsは、そのハードルをクリアーする要素の多いイマーシブフォーマットかもしれない、と考えた江夏氏。だが、64chに及ぶ7th order Ambisonics(7次 アンビソニックス )にどれだけ意味があるのかはまだわからない。しかしそれを提供することで、多くの人にイマーシブ・オーディオを楽しんでもらうチャンスが訪れるのではないかと考え、「やるなら最大限のクオリティで提供したい」ーーーそう考え、このプロジェクトはスタートした。
Ambisonicsの可能性は未知数な部分が多いが、現時点ではっきりしているAmbisonicsの利点は下記の通りだ。
Ambisonics の利点
Ambisonicsは「シーン・ベース」というフォーマットである。Ambisonicsで提供されるファイルは、どのような視聴環境(スピーカー・レイアウト)にも左右されず再生することが可能だ。極端に言うと、どれだけいびつなスピーカー・レイアウトでも構わない。デコーダーさえあれば、私たちは誰でもAmbisonicsを体験することができる。ホームオーディオ、カーオーディオ、シネマ、ライブなど、その利点を活かせる場所は無限だ。
マルチチャンネルのスピーカーを設置することが難しい家庭でも、シーリングライト一体型のスピーカーなどを活用し、簡単にAmbisonics環境を構築することが可能である。スピーカーの配置にも縛られる必要がないため、例えば、自動車内の音響として柔軟に利用することが可能だ。また、自動運転機能が実装された車内では、運転から解放された運転者は、移動次に様々なコンテンツを楽しむことができるようになる。その中でも最も期待されているのが、このイマーシブ・オーディオだ。またAmbisonisは、バイノーラル・デコードを行うことでヘッドフォンでも作品を楽しむことができるため、まさにスピーカーの配置に縛られない、とても柔軟で商業利用しやすいフォーマットと言えるだろう。
試聴
ここで某TV番組のテーマ曲で起用された、ピアノ・和太鼓・篠笛のアンサンブル音楽《Beauty of Japan》を試聴した。後ろから鳴る鈴、ピアノの響き、そして美しい音色の和楽器が紡ぐサウンド。広がりのある繊細で豊かな空間から、非常に幻想的なイメージが展開された。
チャンネルベースのイマーシブ再生とは趣の異なる不思議な没入感に、参加者から感嘆の声が起こった。
《Beauty of Japan》、最初は2chステレオで再生された。DAW上でのトラックの並べ方は、通常の2ch作品のそれと変わらない。しかしながら作品をイマーシブに展開した途端、今まで聞こえなかったサウンドが見えるようになったのだと、今回のAmbisonicsミックスをサポートした伊藤氏は語る。鈴の流れる音やピアノのペダルを踏む音など、他の高域の周波数にかき消されてしまっていたディティールが繊細に見えてくる。それらが良いリズムを作り出したり、音の粒子感を細かくしたり……といった効果を生むのである。
音圧を稼ぐ必要は全く無い。それよりも、ダイナミクス・レンジを楽しんでほしいのだと彼らは語った。
Ambisonics の次数について
1st order = 4ch、2nd = 9ch、3rd = 16ch……そして、7th = 64ch。この数字は何を表しているのか。
例えば「ステレオ」は、1つのファイルに L / R の2つのオーディオファイルを含んでいる。対して7th order Ambisonicsは、1ファイルに64chのオーディオファイル(インターリーブWAVファイル)が入っているのである。これはとても驚異的なことだ。
ファイル容量も大きく、それに見合う効果があるかも分からない。江夏氏も、最初は5th orderでも良いのではないかと思ったそうだ。しかしAmbisonicsは、7次で楽曲を作っておけば、5次でも3次でも1次でも、その時の再生環境に合わせて次数をダウングレードさせて再生することが可能。そのため、作品自体は高次の アンビソニックス で制作することになった。
H.O.A. (High Order Ambisonics) の利点
一般的には、1次Ambisonicsより高次のものを「ハイ・オーダー・アンビソニックス」と呼ぶ。音質が上がるのではなく、球面上のどこから音が出ているのか、という音の「定位」の解像度があがるため、次数が高まるほどよりリアルな音場の再現が可能になる。SDがHDに、HDが4Kになるように解像度が上がるため、より音像を的確に表現できるようになるのである。今回、最上位の7次Ambisonicsを採用することで、定位感、移動感、空間感……全てにおいて今までのサラウンドでは表現できなかった次元へと到達することができたと感じている。
音像の移動
ここで、IEM Plug-in Suiteの開発者でもあるダニエル氏が開発したパンナー(ヘッドトラッカー)が登場。中に加速度センサーを始めとする各種センサーが入っており、こちらもソースコードが公開されている。
USB接続のMIDIコントローラのため、江夏氏はこれをパンナーとして活用。手に持って踊るように音のパンニングを行った。
ここで、「ピアノソロの上をモジュラーシンセが走る」という、音像の移動感が特徴的な楽曲《Contradiction》を試聴。「音、飛んでました?」という江夏氏の問いかけに、多くの参加者が大きく頷いた。また、同じ曲をステレオとイマーシブで切り替えながらの比較試聴も行い、その広がりの違いも体感した。
Ambisonicsは、その他のサラウンドに比べて音像の動きがはっきりとスムーズであることもひとつの特徴。自分がパンナーを手にして動けば動くほど音が追従して来たそうだ。まさにAmbisonicsの可能性を感じた瞬間だったと語る。
パンニングも大切だが、とにかく全てのサウンドが立体感を持って聴こえてくる。ヘッドホンや車でこれを体感できるのは、期待度が非常に高い。
実際の制作について
では、実際にAmbisonics作品を制作するのはどれだけの労力が必要か。
現在はまだ大変なことも多い。ただ将来的には、現在我々がDAWを活用するように簡単になるのではないかとも考えている。
その中でキーとなるのが、先ほども登場した「IEM Plug-in Suite」の活用だ。このVSTプラグインはオープンソースとして公開されているので、誰でもすぐにダウンロードして使用することができる。そして、現時点で7次Ambisonicsに対応するDAWは「REAPER」のみである。価格は6,000円ほどで提供されており、これは、インターネットで購入することができる。
すなわち、だれでも、今日からでもAmbisonicsを始めることができるのである。
ミックスについて
Ambisonicsのミックス作業は困難を極めた。DAWの限界への挑戦だった。物理パンナーが4軸で動くため、フリーズしたり意図しない動きが描画されたりと、オートメーションの記録に大変苦労したそうだ。ただ、これは技術的な問題のため将来的に解決されるのではないかと推測される。
今回江夏氏がこだわったポイントは、ハイレゾでり、7次という高次アンビソニックスだ。「聴こえてこなかった音が聴こえてくる」といった情報は、ハイレゾであればあるほど鮮明になる。人間の耳は20kHz以上聴こえないとされるため、96kHzや192kHzに果たして意味はあるのだろうかと問われることも多い。しかし再生環境を整えれば、どんな人でもサンプルレートの聴き分けは可能だ。江夏氏のスタジオで、それを聴き分けられなかった人は過去にいないという。
つまり、ハイレゾ+7次Ambisonicsにこだわることによって、より作品への没入感を高められるのではないかと考える。
Reaper画面下部に表示されたミキサーの緑色のバーは、64ch分のレベルメーターを示す。これらをミックス・マスタリングし、Ambisonics Busへ送る。そのレベルメーターの多さで、これが高次のAmbisonicsであることが伺い見れる。画面上部はオートメーション・トラック。4軸分、個別に記録されていることが分かるだろう。
制作は何もかもが初めての状態だったが、特に「ピーク管理」が大変だったそうだ。まず、どのチャンネルでクリッピングしているかを探し当てるのが一苦労。せっかく探し当てても、次の箇所のクリッピングは違うチャンネルだ。64個もの音があるため、原因特定が困難である。
江夏氏はこの作品において、とにかくダイナミクスレンジを大切にしている。無闇にレベルを下げたり上げたりといった処理は行わない。故にリミッターやマキシマイザーも使用しない。お互いのバランスを維持したまま、適切に聴こえるように音像を定位させる作業が必然となった。
試聴
そして他の作品の試聴を行った。
《Trilogy》《SAKURA》:2台ピアノ
作品がAmbisonicsのため、ピアノをどこにでも配置することができる。当初はプラグイン「Room Encoder」を使って「室内で綺麗に鳴っている」という状況を再現しようとしたが、あまり良い効果が得られなかった。
VR作品のように音像が移動するものでもない。あくまで音楽作品としての広がり、奥行きーーー音が醸し出すエンタテイメントを作るため、次の方法を採用した。
「Stereo Encoder」を使用し、ステレオファイルを左側 仰角35°/70°の場所に配置。2台目のピアノは、その反対(右)側に配置した。少し上の方向に、ステレオファイルを2個並べたような状態を作り出した。実際にはあり得ないシチュエーションだが、この方法を取ることで、球体の空間を美しく包み込むことに成功した。
作品にもよるが、例えば「ミュージシャンが室内で演奏しているシーンを再現したい」ということであれば、部屋の初期反射をエミュレートする「Room Encoder」を使用するのが適切だろう。しかし今回の2曲については、音の響きやディティールを重視する音楽を目指したため、上記のStereo Encoderを用いた方法がベストだったのではないかと語る。
《Lovestruck》:ピアノ+ストリングス
全体を包み込むストリングスとピアノのコントラストが、なんとも美しい楽曲だ。
《GENSO》:ピアノ+生バイオリン(アンサンブル)
バイオリンが右上から降ってくるような配置がなされている。「降ってきている感覚はわかりましたか?」という問いに、またも皆が頷いた。
これも、従来のイマーシブ・サラウンド作品では表現しきれなかった領域に達しているそうだ。シーン・ベースにて表現をした途端、突然降り注ぐ感覚が強調されたことに感動したのだという。
《L’eau et sol》:ピアノ+モジュラーシンセ+打ち込み
きらきらと澄み渡る、洗練されたサウンドの楽曲だ。
以下の写真、画面左上に表示した「Energy Visualizer」は、球体のどこに音が配置されているか(エネルギーが集まっているか)を視覚化できるプラグインである。ミックスダウンをする際、このプラグインを見ながら配置してゆく。従来には無い感覚だが、使い慣れてくると「移動中にEnergy Visualizerを見ながらヘッドホンでミックスする」といったことも出来るのだという。
Ambisonics 作品の制作における問題点
制作の問題点は、現時点では多数ある。ひとつは、7次Ambisonicsの制作が行えるツールがほとんど存在していないこと。そして、その使い方もAmbisonics独特なものが多く、例えば「場所をコンプレッションをする」といった今までに無い新しい概念も加わってくる。つまり「何をどうしたいか」というオプションは、膨大な数が存在するのである。
今回の作品において最も苦労した点は、先述の通り「ピーク管理」である。今後、64ch分のAmbisonics Busに果たして思い通りリミッターが掛かってくれるのか。またパンナーについても、自分の意図した動きを記録してくれる製品が開発されるかどうか。リバーブも現状では「空間」の手法が主だが、どのようなリバーブの手法が生まれるのか。ステレオイメージをどうイマーシブに広げるかーーー
あくまで「シーン・ベース」であるため、アプローチはどのような方法でも構わない。ただ音楽作品においては、ディレイ、モジュレーション、そのほか様々なプラグインが必要不可欠だ。Ambisonicsはまだまだ発展途上の分野。IEM Plugin Suiteには、Ambisonicsでの制作に必要な基本プラグインが全て揃っているとはいえ、実際は、私がやりたいことを実現するツールが、まだ足りていないのが現実だ。ステレオ、サラウンドとは全く違った、新たな概念のプラグインの登場が期待される。
今後の Ambisonics
江夏氏が制作時に語った印象的な言葉がある、と伊藤氏は発した。
「Pro Toolsを初めて使った時、僕は今と同じ気持ちを味わった。新しいフォーマットが生まれ、制作論がまだ何も無い時代。これからまた、始まりだ。」
テクノロジーの進化と共に、音楽の視聴環境は変化するだろう。今求められているのは、制作および視聴環境の整備である。
制作においては、対応のDAWとプラグインは多くないのが現状だ。まだまだ入り口は狭い。同様に、高次Ambisonics作品を聴くためのプレイヤーも現時点では世に存在していないが、近い将来、その問題も解決され、様々なプラットフォームで再生することができるようになるだろう。そして、Ambisonics対応のアンプが登場することにより、さらに視聴の機会は増えるのではないかと考える。
Ambisonicsの利点は、視聴環境を問わないこと。イヤホンでも、5.1chでも、車内でも、レイアウトさえ正しくデコードすれば、極めて高品位な再生を行うことが可能である。この点にておいて他の立体音響に比べ、整備しやすい環境にあることは現実だ。
1970年代には既に理論が確立されていたAmbisonics。当時普及しなかった理由は、CPUパワー不足などハードウェアの部分が原因だろうと推測される。しかし、あれから40-50年の時を経て、今日ようやく当時確立された理論が実現できるようになったのである。
VRなどの様々な音楽コンテンツが発生する中で、従来のステレオというフォーマットは、いかにして作品をユーザーに届ければ良いかという葛藤と議論が繰り広げられている。音圧戦争にも限界が訪れつつあるのが現状だ。
江夏氏は、そのためには出来るだけ多出力のマルチチャンネル・スピーカーが必要になるだろうと考え、イマーシブ・オーディオに興味を持つようになっていた。そんな時、ついに7次Ambisonicsという緻密なシーン・ベースの音楽が提供できる時代が到来した。いよいよ新しい立体音響の幕開けがこのAmbisonicsからスタートするのではないか。そんな希望すら感じたのだという。
まだまだ問題点も多く、再生環境も整っていない。数年後「今の話は全て嘘だった」となる可能性もゼロではない。しかし、Ambisonicsが世の中を席巻している未来もまた、可能性はゼロではないだろう。
まとめ
既にYouTubeやFacebookなどの360°コンテンツでは、1次のAmbisonicsファイルをインポートできるようになっている。フォーマットとして最も柔軟性を持つYouTubeがいち早く4Kに対応し、8Kに対応し、そしてAmbisonicsにも対応した。動きはもう、ここまで来ているのだ。
「本講演で、少しでもAmbisonicsの可能性を感じ、体験し、そして制作をするようなベクトルに向いてほしい」という言葉で、江夏氏のセッションは終了した。