日立製作所が取り組む26.1チャンネルの高臨場感音響再生設備を用いた音環境改善

茨城県にある日立研究所。ここは日立製作所の研究開発部門の拠点の一つであり、エネルギー・機械・制御などの領域を中心にした研究開発を推進している。中でも、今回我々が取材に訪れた、ひたちなか市の勝田地区ではロボティクス、モビリティ、生活家電などの研究が進められているが、同地区のある研究施設では「多チャンネルの高臨場感音響再生設備を用いた音環境改善」といった興味深い研究が行われ、GENELECスピーカーやRMEの音響デヴァイスが多数導入されている。“音環境の改善”とは? また、そうした目的に向けて各機材がどのように活用されているのか。同社研究開発グループの田部洋祐氏、山内源太氏のお二人にお話を伺った。

文・取材◎山本 昇 撮影◎八島 崇
人物写真について◎撮影用に一時マスクを外していただきましたが、取材中は常時マスクを着用していただきました

 

■ 人が感じる“音環境”を空間全体で捉えるという発想

「私たちは、日立が扱っている様々なプロダクトの騒音や振動を抑え、皆さんにとって静かで快適な製品作りのために研究を行っています」(田部氏)

日立製作所 研究開発グループ 田部洋祐氏
田部洋祐氏(日立製作所 研究開発グループ 電動化イノベーションセンタ 生活システム研究部 主任研究員)。現代音楽からテクノまで、多様な音楽に親しむ。得意な楽器はヴァイオリンとのこと

 この日、我々が訪れたのは、複数の無響室や残響室、防音室などが備わる研究施設。対象となる製品は一般の消費者にとっても馴染みのある家電製品から自動車機器、鉄道車両など広範にわたるという。無響室に水道の蛇口や排水口があるのは洗濯機が動作するときの音を確かめるためだ。

「無響室の中に入らないような大きなものは、その中のコンポーネントや部品だけを持ってきて評価しています。製品が静かに動作してくれるような様々な工夫や仕掛けに関する研究を進めています」(田部氏)

 しかし、そうした音や振動の評価を行う際に目を向ける、いや、耳を傾けるべきなのは製品やコンポーネント、部品そのものだけではないと田部さんは言う。

「もう少し目線を広げて、それが使われている場に与える影響にも注目して、空間全体の音環境をより静かで快適なものにしていきたいと考えています。そのためにも、人の周囲の音環境を360°丸ごと収録して評価できるシステムを作りたいと思ったのです」

 「音は点じゃない。空間で捉えなければならない」---到来方向によって音の印象はどう変わるのか。大学ではそうしたテーマに挑んだという山内さんも、今回のマルチチャンネルシステムの構築に携わった一人だ。

日立製作所 研究開発グループ 山内源太氏
山内源太氏(日立製作所 研究開発グループ 電動化イノベーションセンタ 生活システム研究部 研究員)。学生時代はバンドでギター演奏を嗜み、いまもボサノヴァなどラテン音楽が好みという

「従来は、主にレベルメーターで音の大きさがどれくらいなのかを評価していたわけですが、騒音源は正面にあるとは限りません。後ろにあるかもしれないし、反射を大きく感じているのかもしれない。であるならば、音は点ではなく、空間で評価すべきなのではと考えたことがこのシステムを立ち上げるきっかけとなっています」

 人を中心に、水平/垂直の各方向から音を再生して、製品が使用されるシーンを再現してみる。それによって何が得られるのか。山内さんはさらにこう説明する。

「製品単体やコンポーネントが発する音の大きさが分かったとしても、設置される場所によって音の印象はずいぶん変わります。スピーカーも、置く部屋や位置によって聴こえ方が変わりますよね。弊社の製品が、設置される空間でどんな音になっているのかを正確に掴むことで、人が不快と感じる音を抑えたり、和らげたりできると思うんです」(山内氏)

 

 

■ 独自の26.1chシステムに活用されるスピーカーやコンバーター

Genelec 高臨場感音響再生設備
複数ある無響室の一室に設置されたマルチチャンネルのスピーカー群。ハイトレイヤーとボトムレイヤーのスピーカーの一部が上下にオフセットされているのは、モデルとなった多面体の構造を再現しているため。アルミ製のやぐらは内作による手作りでしつえたという

 こうして研究施設内の無響室におよそ1年前に設置されたのが、26台のGENELEC 8320Aとサブウーファー7380Aを組み合わせた26.1ch(チャンネル)のスピーカーシステム(ハイトレイヤー:9、ミッドレイヤー:8、ボトムレイヤー:9、LFE:1)。頭上と足下を含む、人ひとりをぐるりと囲んだイマーシヴな音響システムが完成している。それにしても、26という数字はマルチチャンネルのフォーマットとしては珍しいが、どのような経緯でこうなったのだろう。

「既存の22.2chといったフォーマットも検討したのですが、もっと我々の研究要素を反映させようと編み出したのがこの26.1chというフォーマットだったんです」(山内氏)

 ここで見せてくれたのが、12の頂点を持つ立方八面体と、14の頂点を持つ球面菱形十二面体のモデル。26台の8320Aは、この二つの多面体を組み合わせた「等軸晶系の幾何学配置」に従って設置されているのだ。

マイクアレイやスピーカー配置 等軸晶系の幾何学配置
12の頂点を持つ立方八面体(左)と14の頂点を持つ菱形十二面体(手前)。これらを組み合わせた不思議な多面体(右)の頂点(白い部分)は26となる。マイクアレイやスピーカーの配置はこのモデルに基づいて設計されている

「山内と私はかつて九州芸術工科大学(現・九州大学)の学生だったのですが、お世話になった先生が独自の24chシステムを考案されていたんです。我々も、それにインスパイアされ、回転軸をもっと増やしたり、対称性を高めたりすることで、より臨場感を高めることができるのではないかと、新しいフォーマットを考えてみることにしました」(田部氏)

 一方、より正確な音場の音源収録に欠かせないのが、フォーマットに対応したマイキングだ。お二人が次いで披露してくれたのが、スピーカー配置と同じ幾何形状を持つワンポイントのマイクアレイ。26本の鋭指向性マイク(DPA 4017)と、その中心に1本の無指向性マイク(NTI AUDIO M2211)を仕込んだもの。造形的にも非常に美しい力作だ。ちなみに、中心の測定用マイクは騒音値を測るため、また、アンビエンス用としてLFEに流すことなどを目的に追加されたという。

マイクアレイ
アート作品のようなたたずまいも美しいマイクアレイ。26本のDPA 4017と中心に設置されたNTI AUDIO M2211で構成されている
RME Octamic XTC
マイクアレイでの収録には8chプリアンプRME Octamic XTCを4台使用

 そもそも、これらスピーカーシステムとマイクアレイのベースとなった「等軸晶系の幾何学配置」はどこからきたのだろうか。

「富士山頂の“ジオデシックドーム”の設計者としても知られる建築家、バックミンスター・フラーがかつて考案した、正八面体から立方八面体にダイナミックに変化するモデルに興味があったこともあり、立方八面体には以前から注目していたんです。ただ、立方八面体そのままでは多チャンネルシステムとして数が足りません。そこで、双対にある菱形十二面体と組み合わせることを思い付きました。こうすることで、26chとなり、11.1ch Dolby AtmosやAuro-3D、22.2マルチチャンネル音響など従来のイマーシヴオーディオのフォーマットとの互換性も高まります。なお、この幾何形状を基にしたスピーカーシステムとマイクアレイの制作は、東京藝術大学音楽環境創造科の亀川徹教授、丸井淳史教授との共同研究を通じて行いました」(田部氏)

 

 使用機材の導入理由についても伺ってみよう。

    再生系で用いられているのがGENELEC 8320A(パワードスピーカー)と7380A(サブウーファー)、RME M-32 DA Pro(32ch AD/DAコンバーター)、MADIface XT(196イン/198アウト 192kHz USB 3.0 オーディオインターフェース)など。

「GENELECのスピーカーやRMEのオーディオインターフェースは、私自身が大学で使い慣れていたことも導入理由の一つです。特にRMEとの付き合いは長く、クオリティの面も含めて高い信頼性があり、これ以外の選択肢はあまり思い付きませんでした」(山内氏)

「RMEはリニアリティが高く、特性もフラットなことなどから、“音”を研究したり、仕事にしている人の多くが愛用しているという印象がありました」(田部氏)

 26.1chのスピーカーを制御するのは思いのほかシンプルな機材だ。無響室の外には前述のオーディオインターフェースなどが整然と並んでいる。マイクアレイで収録したマルチチャンネル音源などの再生は、DAW(COCKOS Reaper)がインストールされたPCからRME MADIface XTを経由してMADI接続のRME M-32 DA Proへ入り、アナログに変換された音声信号が各スピーカーへ送られる。また、マルチチャンネルのコンテンツを収録したDVDやBlu-rayなどの音声の再生は、BDプレイヤーとHDMIで接続したAVアンプ(DENON AVR-X4500H)のアナログアウトをMADI / ADATコンバーターのFERROFISH PULSE 16 MXで受け、MADIで繋がれたM-32 DA Proへ送られるという仕組みだ。

「やはりイマーシヴオーディオとして市販されている音楽コンテンツも、リファレンスとして知っておきたいですからね。エムアイセブンジャパンさんの音源集『BLOOM OF SOUND』(RME Premium Recordings)も参考にさせていただいています」(田部氏)

RME マルチチャンネル再生機器 
室外に設置された機材はコンパクトにまとまっている。DAにはRMEのM-32 DA ProをMADIで接続。Ferrofish Pulse16 MXはAVアンプのADとして使用
MADIface XT
マイクアレイで収録したマルチチャンネルの環境音などを再生するDAWの音源を再生する際にPCのオーディオインターフェイスとして使用されているRME MADIface XT

 

   では、スピーカーをGENELEC 8320Aとした理由とは?

「いくつかの候補から最終的にGENELECを選んだのは、LANケーブル1本をつなぐことでいろんな制御が可能となるGLM(Genelec Loudspeaker Manager)の機能性や利便性も大きいですね。距離特性を合わせてフラットにしたりといったチューニングが簡単に行えますし、電源を一括で入れたり切ったりできるのも非常に便利です。スピーカーは天井や床下にも設置されていますので、1台1台オンオフすることはできません(笑)。もちろん、音もすごく良くて、電車の車内音など収録してきた環境音も、まるでその場にいるかのような再現性を感じます。サブウーファーもいいですね」(田部氏)

「聴いていて疲れない音という印象があります。ここでは音楽よりも様々な環境音などを評価することになるのですが、そうした音源も違和感なく聴くことができています。このスピーカーで26.1chを組むことで、収録時の音環境を十分に想起させるような再生が可能となりました」(山内氏)

GENELEC 7380A
サブウーファーGENELEC 7380Aも導入。デモでは車輌を捉えた環境音に含まれる重低音も自然に再現されていた
GENELEC SAM
マルチチャンネルスピーカーシステムを制御するPCの画面には、DAWのReaperやRMEのDSPリアルタイムミキサーTotalMix FX、GENELECのSAM(Smart Active Monitoring)システムの設定や調整を行う管理ソフトGLM(Genelec Loudspeaker Manager)が立ち上がる。電源のオンオフも可能なGLMは運用の際も含めて時常使用されている

 聴かせていただいたデモ音源は、地元のローカル線「ひたちなか海浜鉄道」の車輌を車内や車外で捉えたもので、収録にはもちろん前述のマイクアレイが使われている。26.1chのスピーカーからは、エンジンを搭載した気動車特有のうねりのある持続音、ドアの開閉に伴う音、枕木を踏み締めて進む走行音などが強烈な臨場感をもって迫ってくる。音の方向感が明確なので、耳を傾けるポイントを変えることで実に様々な音源の存在に気付くことができる。単に測定マイクを1本か2本向けただけでは、これほどの情報を明瞭に捉えることは不可能だろう。

「音源の一つ一つにフォーカスして深く聴き込むたびに、新たな気づきが得られる​スピーカーシステムだと思います」(田部氏)

「マイクの置く場所、つまり聴取位置の違いで生じる音像や聴こえ方の特徴に​ついても、このスピーカによる再生系はクリアに表現できているのでしょう」(山内氏)

GENELEC 8320A
スピーカーはGLMに対応するパワードモニターGENELEC 8320A。「丸みを持たせた柔らかいデザインも気に入っています」と山内氏

 目には見えないが、人の生活の質に大きな影響を与える様々な“音”。これを可能な限り好ましいものにするための本格的な評価に耐えうるシステムの構築は、日立グループの未来にどんな意味を持つのだろう。設置完了から約1年、細かな調整を経ていよいよ実践に臨むお二人に、今後の狙いや目標を伺うと次のような答が返ってきた。

「26方向から音を照射できる“音響加振器”という観点では、対象となるものに音を当てたときにどんな振る舞いが生じるかを詳しく調べることも可能です。様々な聴覚実験を通じて、主観的にもより良い音環境づくりに役立てたいと考えています。スピーカーシステムは無響室の中にありますから、よりシビアなレベルでの研究も期待されています」(田部氏)

「オーディオ用途でのスピーカーシステムは音源を再生するための、いわばパッシヴな装置であることが普通なのですが、製品に対してアクティヴに音を与えるという意味でも、このマルチチャンネルシステムはDAWとオーディオインターフェースで制御することによって様々な方向から照射することが可能です。空間に、アクティヴに音を与えたときの振る舞いを、製品や材料あるいは人といったパターンに応じて調べるなど、多様な可能性を秘めていると思います」(山内氏)

「そのほかにも、例えば音のシミュレーション結果の確認にも役立ちます。設計段階で行われる音のシミュレーションは、従来はグラフなどで表したものを見て判断するだけだったのですが、このシステムを使えば音として聴くことができるので、実際にどこが足りていないかがよく分かるんです。聴くことを通じて、私たちのシミュレーションのスキルも上げていくことができるというわけです」(田部氏)

 

 

■ 騒音を超えた先にはクリエイティヴな音空間も見えてくる

 かつては「Lo-D」(ローディ)のブランド名でオーディオメーカーとしても人気を博した日立製作所。今回のソリューションは同社にとっての“音”をどう進化させていくのだろう。

「私たちの現在のミッションは、先ほどもご紹介しましたように不要な騒音や不快な振動を低減し、皆さんに静かで快適な製品を届けること。製品に込めた価値や機能を多くの方々に十分感じていただけるような製品作りを目指しています。つまり、仕事をすればするほど自分たちの存在感はなくなっていくわけですが(笑)、それにしても、いまや音の価値は本当に高いものになっています。私は騒音という言葉はなるべく使わず“音環境”といった言い換えをしていますが、そんな音環境をどうデザインしていくか。そのためのチャレンジにもこの設備を役立てていきたいですね。そして、さらにその先には音の価値をもっと感じられるような、よりクリエイティヴな音空間も見えてくるでしょう。そうしたニーズにも応えられる仕事をしていきたいと思っています。ちなみに、私は個人的にもスピーカーの自作を嗜んでいまして(笑)。オーディオも、やればやるほど奥の深い世界だと実感しています」(田部氏)

「“Lo-D”を憶えているオーディオファンの方たちには知られたことですが、“日立”の文字を逆立ちさせると“音”になるということで、昔は弊社とサウンドの繋がりをイメージしてくださる方も多くいらっしゃったと聞きます。現在はそういった印象はあまりないかもしれませんが、このシステムをきっかけに、日立の新しい音のイメージを皆様に伝えていきたいと思っています」(山内氏)

 家電製品で言えば、洗濯機も掃除機も何らかの音が発するのは避けられないが、その量をできる限り減らし、また、多くの人が不快と感じない音質に寄せていくといったことも考えられる。そうした地道な作業を支える装置としても、この音響システムは機能することだろう。これからは、日立の製品の音に耳をそばだててみたくなるような両氏のお話だった。

 

 では、最後にお二人から読者諸氏へのメッセージをお届けしよう。

「私たちはこれまで、いわゆる騒音を対象とした研究を積み重ねてきました。今回、非常に解像度の高いハイクオリティなスピーカーシステムをはじめとするソリューションを導入することで、騒音を超えた新たなフィールドにもアプローチできるようになりました。音響設計に対する価値を更新できるような環境が整ったことは弊社としても非常に嬉しいことです。例えばオーディオ以外の家電製品にとって、音は主役ではありませんが、そこに何らかの付加価値を与えることはできるはず。この部屋から、そうしたアイデアが生まれるのが楽しみです。皆さんの身の回りにある日立製品の音に耳を傾けていただけると嬉しいです」(山内氏)

「一口に騒音として捉えられるものも、そこに含まれる様々な情報を多角的に検証することで、人にやさしい音環境の創出につなげることが可能です。実際の製品開発への適用はこれからとなりますが、こうした設備の活用を通じて、持続可能な音の環境づくりに貢献していきたいと考えています。日立の今後の製品展開に、ぜひご期待ください」(田部氏)

 


導入機材

8320A 製品サムネ

GENELEC 8320A

小型ながら強力な2ウェイ・クラスDバイアンプを備えた高性能モニタースピーカー

GENELEC 7380A

GENELEC 7380A

SAMファミリーの低域をさらに強化するGenelecのフラッグシップ・スタジオ・サブウーファー

MF XT製品サムネ

RME MADIface XT

196イン/198アウト MADI対応のUSB オーディオインターフェイス

M-32ADDA 製品サムネ

RME M-32 Proシリーズ

32チャンネルハイエンドコンバーター
MADI<>AVB<>アナログ

Ferrofish Pulse16 MX

Ferrofish Pulse 16 MX

16チャンネルコンバーター
MADI<>ADAT<>アナログ


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