長岡技術科学大学
長岡技術科学大学の実験施設に導入された
大規模41.2chスピーカー・システム
「米百俵と花火のまち」−−−新潟県長岡市に広大なキャンパスを構える「長岡技術科学大学」は、工学系大学として実践的な技術開発を主眼とした教育研究で知られ、大学院に進む学生の比率も高い、特色のある学び舎だ。自然に囲まれた敷地の奥には国内有数の無響室を擁する「音響振動工学センター」があり、騒音や振動など音にまつわる社会課題の解消に向け、大きな役割を果たしてきたという。この「音響振動工学センター」内にこの度、41.2chの多チャンネル・スピーカー・システムがインストールされた。その目的や、期待される成果とは? 同大学「信号処理応用研究室」の准教授で、施設の副センター長も兼務する杉田泰則先生に、スピーカーや各種デバイスの選定理由も含めてお話を伺った。
取材・文◎山本 昇 撮影◎八島 崇
社会に貢献できる成果を目指した研究
−−まずは長岡技術科学大学の特徴を、そして杉田先生が教鞭を執る「信号処理応用研究室」の概要について教えてください。
本学では、高専から編入する学生が8割を占め、大学院で修士を目指す学生が多いのも特徴です。このような国立大学は愛知県にある豊橋技術科学大学と本学の二つだけです。特徴的な教育の一つに「実務訓練」という制度あります。これは、大学院に進学する学生を対象に、4年生の10月〜翌年2月頃までの4〜5ヵ月間、企業に赴いて研修などの実務を積んでもらうというもの。長めのインターンシップのようなイメージで、実際の現場で仕事を体験することで将来、自分が技術者としてどういったスキルを身に付けるべきなのかを理解し、大学院での研究に役立ててもらおうという、ちょっと特殊なカリキュラムを組んでいます。
音や画像を扱う「信号処理応用研究室」では多くの学生が音に関わる研究に勤しんでいます。研究の中心的なテーマには「頭外音像定位」や「立体音響」などがあります。例えば、最近よく見られるようになった骨伝導を使ったヘッドフォンでの立体音響。こうした音像定位技術を応用することで、視覚障がい者の方の歩行支援に繋げたり、車椅子の制御を可能にしたり、社会的な課題の解消に貢献できる成果を目指した研究を進めています。
ヘッドフォンやイヤフォンを使った音像定位を巡っては、音の方向を正確に定位させるのは非常に難しい課題です。特に骨伝導を使ったものだと、骨を伝って蝸牛に振動が届くという特性から、定位がなかなかはっきりと出せないのですが、そこをいかに工夫できるかが研究のポイントとなっています。
−−杉田先生が音響信号処理に興味を持ったきっかけは?
子供の頃、実家の押し入れで見つけたアコースティック・ギターが音に興味を持ったきっかけでした。上手く弾けたわけではないのですが、遊びがてら鳴らしていたのをよく覚えています。また、自動車のエンジン音やドアの閉まる音で車種を当てるとか(笑)、幼い頃から音に興味がありました。大学では、デジタル・フィルターを用いた適応信号処理をアクティブ・ノイズ・コントロールに活用したり、補聴器の特性の補正などに使ったり、音とフィルターの関係について研究を行っていました。ただ、デジタル・フィルターの設計は数学的な作業が多いためか、今の学生たちには人気が今一つで……。そこで、「信号処理応用研究室」の立ち上げに際しては、音や画像を扱いながらデジタル・フィルターを応用する方向に少しシフトしました。
音場再現などに活用される3Dスピーカー・システム
−−この度、GENELECスピーカーやRMEなどのデバイスが導入された「音響振動工学センター」とはどのような目的で造られた施設なのでしょうか。
名称のとおり、音響と振動に関する研究に使うことを目的とした学内の共同教育実験施設です。1976年の開学から間もない1984年に設立されました。教育機関としては珍しい大きな無響室と2つの残響室のほか、電気機械音響実験室、聴覚心理実験室などを備えています。私の研究室ではこの無響室を、主に音像定位のHRTF(頭部伝達関数)の測定などで活用していますが、他の研究室では製品の騒音レベルを測るなど、様々な用途で使用されています。また、外部の企業から使いたいというご相談を受けることもありますね。
−−教育機関にこれほど大規模な無響室があるとは驚きました。
そうですね。床は網目状の鉄線になっている「全無響室」でこの大きさとなると、国内ではあまり見られないと思います。私の専門分野でお話ししますと、音像定位の研究では人がどのようにして音を理解しているのか、ある方向から放射される音が人の耳にどう届いているのかを測定するには、不確定要素をできるだけ外さなければなりません。そのためには無響室のような設備がどうしても必要なのです。
−−では今回、実験施設である同センターに多チャンネル3Dスピーカー・システムが導入されることになった経緯をご説明ください。
私自身、かねてから立体音響を研究していまして、HRTFを測る際にはできるだけフラットな特性のスピーカーが必要となります。そのためには特性を簡単に補正できることも条件の一つでした。また、最近では音場再現の研究も盛んに行われています。これは、例えばコンサート・ホールを別の空間で再現するというものです。あるいはVRやARを活用したロボットの遠隔操作を目的とした研究では、視覚情報についてはヘッド・マウント・ディスプレーなどで立体的に再現することが可能となっていますが、音に関してはまだ再現できていません。遠隔操作には音も重要な情報となりますから、ロボットがいる空間の音を別空間で再現したい。そういった研究における音の重要性に注目し、より正確な音場再現も行える多チャンネルの3Dスピーカー・システムが必要であることから、導入に踏み切りました。
−−スピーカー・アレイはすべてGENELECのアクティブ・スピーカー8320Aで統一され、上層:9、中層:24、下層:8の計41台に、サブウーファー7370Aを2台加えた41.2chという構成ですね。
水平面に関してはHRTFの測定のためにできるだけ多くのスピーカーが必要で、このシステムでは15度間隔で設置されています。これは、以前からHRTF測定のため無響室で行っていたパッシブ・スピーカーの配置と同じです。今回のスピーカー・アレイも、当初は無響室の中に入れる計画でしたが、事情により今は音響振動工学センター内の別のスペースに設置しています。ただし、水平面だけを無響室に持ち込む際の可搬性を考慮して、中層の24台はすべてスタンドに取り付けました。もちろん、トラスをバラせばシステム全体を入れ込むことも可能です。
−−最大36chの録音も可能なシステムですが、今後はどのような実験を行う予定ですか。
やはり一例としては先ほどお話しした音場再現に関連して、遠隔地の音環境を別の場所で再現することなどに活かしていく予定です。また、その際には収音にも工夫が必要で、マイクも多チャンネルで録音できるよう準備しています。そこについては今後、機材を拡張してマイクのチャンネルとスピーカーの数を合わせていく予定です。
研究施設で際立つアクティブ・スピーカーのメリット
−−ここからは機材の導入理由について伺います。まず、スピーカーをすべてGENELECとした理由からお教えください。GENELECブランドについて、どのようなイメージをお持ちでしたか。
GENELECの名前は知ってはいたものの、実際に使ったことはなかったのですが、これだけの数のスピーカーを制御するには、やはり管理しやすいスピーカーを選ぶ必要がありました。そうした視点から、「MUSIC EcoSystems|BIZ」の導入事例なども参考に調べてみたところ、いちばんヒットしたのがGENELECスピーカーでした。各々のスピーカーをネットワークに簡単に繋げられること、その電源も一括で管理できること、そして特性の補正も簡単に行えることが非常に便利で、そこが選定の主な理由です。
−−以前はパッシブ・スピーカーをお使いだったとのことですが、今回はアクティブ・スピーカーの導入となりました。
全体のシステムを考えると、例えば無響室で測定する場合、中に入れる装置はなるべく減らしたいわけです。アクティブ・スピーカーなら別途アンプを用意せずに済みますし、ケーブルの接続も簡単に行えます。こうした理由から辿り着いたのがアクティブ・スピーカーだったというわけです。
また、ADコンバーター、DAコンバーターなどRMEをはじめとする機材との相性がいいところもGENELECスピーカーを選んだ理由の一つです。
パッシブ・スピーカーを無響室で使う場合、壁の穴から通すケーブルの本数が非常に多くなってしまいます。GENELECスピーカーとRMEを中心としたシステムの場合、DAコンバーターは中に入れる必要がありますが、他の機材を含めてすべてがシンプルなネットワーク・ケーブルで繋がります。そうした取り回しの良さもありがたいポイントでした。また、RMEのDAコンバーターは動作音を全く出しませんから、正確な測定に何ら支障はありません。以前のシステムでは、部屋の外に設置していたパワー・アンプがかなりの騒音を発していたので、この点はとても助かっています。音場再現では、実際に適用される環境は一般的な部屋を想定しますが、研究の段階ではやはり不確定要素を排除しておきたいですから。
−−サイズがコンパクトなため、限りあるスペースでもより多数のスピーカー・アレイを組むことが可能なGENELECスピーカーです。導入後、あらためて感じられたメリットがありましたらお教えください。
HRTFの測定や音場再現を行う際は、一つひとつのスピーカーの特性は同一であってほしいわけですが、GENELECスピーカーはそこをGLMで正確に合わせられるのが非常に便利だと思いました。しかも、その操作は簡単に行えますから、無響室の中など、場所を変えるときもすぐに調整できていいですね。
RMEを中心としたデバイスの安定性と拡張性
−−再生(録音)系システムの概要、音の流れをご説明ください。また、AD/DAコンバーターなど主要なデバイスの導入理由も教えていただけますか。
研究では主にMathWorks MATLABなどの数値解析ソフトを使い、パソコン上で信号処理を行っています。その再生は、USBケーブルで接続したオーディオ・インターフェイスのRME Digiface AVBからPreSonus SW5E(AVB対応のスイッチングハブ)のネットワークを経て、RME M-32 DA Pro(DAコンバーターとして使用)から出力されるアナログ信号がGENELEC 8320Aと7370Aに流れています。
また、見学者へのデモなどでメディア・プレーヤー(DENON DN-500BD MKII)を使う場合は、HDMI接続されたAVアンプ(marantz AV8805A)からのアナログ信号をFerrofish Pulse16 MX +24で受けてAD変換し、RME AVB Toolを経由してネットワークに繋げられています。まだすべてのチャンネルを鳴らし切れてはいないのですが、デモ音源を聴いた方は皆さん、その立体的な音像に驚かれています。
これら機材の選定はシステムをご提案いただいたエムアイセブンジャパンさんと相談しながら進めていきましたが、今回、伝送規格にAVBを採用したのもそうしたアドバイスからです。ルーティングが柔軟に組め、RMEとの親和性も高いということで、正確性が求められる研究機関にも向いていると考え、採用に至りました。そして、RMEを中心とした機材は拡張性が高く、また安定的に運用できる点を評価しています。
世の中を豊かにする音像定位の研究
−−今後、このシステムをどのような研究に活かしたいとお考えですか。
私たちが行っている研究の一つに、「オーディオ・スポット」という取り組みがあります。スピーカー・アレイを上手く制御して、同じ空間内で別々の音を届けるような技術のことで、例えば、ある人には日本語の音声が、別の人には英語の音声が聞こえるようにすることができます。今後、自動車の運転が自動化されると、ある席では音楽を、別の席では映画を、また別の席では寝たいので静かにしてほしいとか、座席ごとに個別の音を届けたいというニーズも生まれることでしょう。そうした研究にもこの多チャンネル・スピーカーが活用されます。ただ、実際にはそんな音環境をなるべく少ないスピーカーで実現することを目指しています。
私の「信号処理応用研究室」では、人が音をどう捉えているのかを理解することが大事なポイントで、そこで明らかになったことを工学的に応用することを求められます。学生・学院生には、そのための聴覚実験にもこの設備を上手く使って研究を進めてほしいと思っています。
−−今後、人々を取り巻く音環境はどう進化しいくのでしょうか。
人によってはいい音も、別の人にとっては嫌な音だったり、音ってなかなか難しいところがありますよね。ここの無響室は企業の製品の騒音測定にも活用されていますが、それは主に騒音を下げることを目的に行われていました。最近は快音化、つまり不快じゃない音に変換するような研究も進められています。そうした成果が実際の製品などに反映されることで、社会に貢献したいと考えています。
−−ところで、貴学に来てほしい学生像とは?
それはもう、チャレンジ精神が旺盛な学生ですね。高専で鍛えられているので、「とりあえずやってみよう」という学生は今も多く、大変いいことだと思っています。ただ、高専を出てすぐはまだ感覚的にやっているような様子も見られます。大学・大学院では、そこに理論をちゃんとくっつけて説明できるようにしなければなりません。いずれにせよ、チャレンジ精神に溢れた学生に来てほしいと思っています。
−−現在ここで学んでいるたくさんの学生・学院生たち。杉田先生が彼らに期待するところは何でしょうか。
アンテナを広げていろんなことに興味を持って、自分がやりたい研究テーマをなるべく早めに見つけてほしいですね。技術者としての自分の将来像をイメージしながら、充実した学生生活を送ってほしいと思います。そこで磨かれる技術は、基本的には世の中を豊かにするためのものです。本学で学んだ技術者が、そうした実り多い取り組みを通じて広く社会に貢献していくことを期待しています。
今回の取材で出会った大規模な3Dスピーカー・システムは、音楽やエンタメのために造られたものではないが、その音場の再現力は圧倒的。オープン・キャンパスなどで訪れた人たちに向けたデモでも驚きの声が上がっているという。杉田先生の「信号処理応用研究室」で日夜研究が進められている骨伝導や歯骨伝導による音像定位は、視覚障がい者の方の歩行支援といった社会福祉の分野にも応用可能で、実現すればその恩恵は計り知れない。「企業さんではなかなか扱いにくいテーマですが、国立大としてはむしろそういったところをしっかりやるべきだと考えています」と杉田先生はインタビューの最後に力強く語ってくれた。この施設で行われた研究から産み出されるであろう数々の技術。今後、それらが人々の耳を取り巻く様々なシーンで実際の製品やサービスとなって社会に実装され、私たちの生活を豊かにしてくれることだろう。