SONY 360RA制作レポート『Yoshida Tamotsu Classic』後編
本記事では、話題の空間オーディオフォーマット「SONY 360 Reality Audio」の制作現場より、エンジニア目線での詳細レポートを、前編と後編の2回に分けてお届けいたします。
本レポートを執筆したのは、レコーディングエンジニアの伊藤隆文氏。音響ハウスを退社後、2011年より活動の場をongaqへ移し、現在もフリーランスのレコーディングエンジニアとして活躍を続けている伊藤氏は、長年サラウンドでの録音に携わり大変多くの経験と知見を持つエンジニアです。
今回伊藤氏とお伺いしたのは、国内初のSONY 360RA認定スタジオである、ラダ・プロダクションの「山麓丸スタジオ」。
大滝詠一「A LONG VACATION」はじめレコーディングエンジニアとして数々の名作を手がけてきた吉田保氏を録音/ミックスエンジニアに迎え、SONY 360RAに特化した新録のクラッシック作品として制作された「Yoshida Tamotsu Classic」の詳細を伺いました。
文・取材◎ レコーディングエンジニア 伊藤隆文
*新型コロナ感染拡大防止ガイドラインに基づき取材を行っております。
レコーディングエンジニアの伊藤です。
「Yoshida Tamotsu Classic」第二弾の収録現場のレポートに続き、その後、ミックス作業を進めていらっしゃる保さんとChester Beattyさんにインタビューする機会をいただきましたので色々とお伺いしてみたいと思います。
伊藤:収録の際はお疲れ様でした。今私も「Yoshida Tamotsu Classic」第一弾のモーツァルト、そして第二弾のライヒを続けて試聴させていただいたのですが「360RAが新しいフォーマットだな!」と感じながら楽しく聴かせていただきました。
改めて360RAの収録からMIXまでの過程などを中心にお話しをお伺いできればと思います。
まず、360RAを想定した収録プランニングはどのような分担でおこなっていたのでしょうか。楽曲、編成、そして収録会場が決まっている中で、全体の方向性やマイクプランニングなどを、どのように進められたのかを教えていただけますか?
Chester Beatty:保さんは昔から世界各国でクラシックの収録も行っておりますし、収録するスタジオを見ればだいたいどのような感じに収録すべきかがわかりますので、360RAに合わせて立体的に収録したい!というオーダーを前提に全面的にお任せしておりました。
ただ一点だけ、クラシック収録は今までデッカツリー方式など用いて、会場(その場所)をキャプチャーするという録り方が今まで標準的だったかと思います。現代になって少し収録方法が変わってきたということもありますが、今回は、楽器をオンマイクでキャプチャし制作するということを前提としてお願いし、その中でのプランは全てお任せ!としております。
吉田保:マイキングも、オンマイクであっても、いかにオフ的な感じを入れて録るかがポイントだよね。定位の問題もありオンマイクでないと360RAでうまく定位がつかないから。そういったことも想定すると藝大のスタジオが一番よいかな?と考えていたんだよ。
Chester Beatty:そうですね、東京藝大さんにも相談させていただき、貸していただけるということになったので、東京藝大所有のマイク、機材を確認させてもらいつつ、足したいマイク等はエムアイセブンジャパンさんからお借りしたりして、初回の収録プランニングができました。360RAを踏まえた収録環境としてはパーフェクトだったのではないかと思っております。
伊藤:天井高も通常のレコーディングスタジオより高いですし、藝大のスタジオは「空間」が広いですよね。360RAでの定位も考えるとこの広めの空間は欲しくなりますね。
吉田保:スタジオは強いて言えば低音の吸音が少しタイトな印象があったかな。もう少しふくよかな感じにしたかったので、そこはEQで少し補完し、そのイメージにできたと思っているけど。
Chester Beatty:そうなんです。360RAって低音の録り方と処理が難しいんですよ。もちろん低音が定位しづらいってこともありますが、初回を収録した感覚として二人ともこの低音感に関しては「少し工夫が必要だよね!」っていう感覚があったので「2作目では!」と保さんともすぐに次作の話しをしてましたね。なので初回のモーツァルトを経ての今回のライヒのマイクプランニングとなっています。
伊藤:なるほど、オンマイクに関しては、すぐにそのような意見交換が行われていたのですね。そして前回のモーツアルトから今回のライヒでの変化としては、アンビエンスのマイクも高低ともに増えていると思うのですが、増やそうと思ったタイミングはいつですか?やはり初回のミックスを行っている時なのでしょうか?
吉田保:これは収録している段階で感じてました。
伊藤:なるほど。
吉田保:そしてミックスしてみて、やっぱり欲しいな!という感じにあったので、今回に生かしているんだ。それでも低域などはEQで持ち上げたりしているけどね。収録ってまずは録らなきゃいけなかったりもするから、色々難しいよね。
伊藤:なるほど最初の収録時から感じていられたのですね。先ほど2作をつづけて聞かせていただきましたが、全体の印象としてはライヒは横の配置が綺麗にみえつつ、レンジは広く感じられ「さすがだな!」と思っておりました。
吉田保:そりゃ1回目より2回目が良くなんなきゃ!(一同笑)
Chester Beatty:今回、収録当日はデッドな状態で、演奏家の皆さんもコントロールルームでプレイバックを聞いていましたが、このようにミックスで空間を作り、どんどん360RA作品に近づいていくと、「演奏がうまくなった!」という意見がやはり演奏家からもでてきます。クラシック楽曲のミックスにおいてもこの360RAというフォーマットでのミックスは、収録時にステレオモニターとのギャップが大きいのかな?とも感じております。
吉田保:収録より良くなるのがミキシングだからね(笑)
伊藤:今回のミックスで特に苦労した点などございますか?
吉田保:めちゃくちゃな苦労はないけどね!さっきの話にもあったように、収録の時はステレオで聞いていたのでVibとMarimbaのバランスなど奏者との意見交換があった事を思い出しながらミックスは進めたかな。でも今聴いたミックスもまだ100%ではないと思うけど、聴いた感じ、これも良いかな?なんて思って聞いていたけどね。
伊藤:そうですね、私も収録当日スタジオにいて、皆さんと同じようにプレイバックを聞いており、奏者の皆さんが言っているMarimbaとVibの音量バランスの意見交換など理解しておりますが、360RAでのミックスはステレオとは違うワイドの配置も感じつつ音量バランスも綺麗に整っている印象でした。配置に関してはVibとMarimbaを逆にするのもありか?など考えながら聴いちゃいました。なかなかエンジニアとしては想像が膨らむフォーマットですね。
Chester Beatty:そうなんですよねー。逆もありでしょうね。
吉田保:全然まだどれが正解かはわからないよね。ただ今まで通りの既成的なクアドロフォニクのような配置だったり、今までのクラシック収録の枠からは脱却しないといけないだろうね。
伊藤:そうですよね、先ほどChester Beattyさんがおっしゃったように、クラシック収録に関しては現場をキャプチャーするような方式が多かったと思うのですが、昨今収録方法も変革の過渡期ではありますから、この360RAのような音像で聞いてもらえるのであれば、新録のクラシック音楽のリスナーが増えるのではないですかね。
Chester Beatty:そうですね、今までより、よりライブ感あるコンテンツにはなっていると思うので、どんどん新しい見せ方をしていきたいな!とは思いますよね。保さんご自身「新しい事」好きですからね。
吉田保:疲れるけどね~(笑)
定位に関しては當麻さん(ラダ・プロダクション)にも手伝ってもらえるのは本当に助かるよ。新しい感覚でのパンニングだから、その辺の発想も一人のエンジニアで行うよりみんなでやった方が良いよ。間に入ってもらって、こういう定位はどうだろうとか、複数のエンジニアに手伝ってもらうのはありだよね。どうしても一人だと枠を超えづらい事あるじゃない?「ちょっとおかしいかな?」と思いながらもチャレンジとして進みたかったりとかさ! 固定概念を超えるためにも、こういう新しいフォーマットの時は違う耳のエンジニアが意見出し合って「これも良いんじゃないか?」っていうのはありだよね。
伊藤:本当にそうですね。
伊藤:収録時のプランニングはお伺いしたのですが、今少しお話しがでた360°ミックスのプランというか、仮の配置から最終形まではどのように進めていかれたのですか?
吉田保:僕のほうは収録現場で聞いている音は収録音をモニターしているだけなのでミックスの時にはマイクポジションなどを思い出したりしながら想像力を使って再配置しているかな。収録時にモニターしていたサウンド感は全く意識していないかな。
伊藤:ちなみに最初から360RAでのパンニングを行いながら、ミックスを進めているのですか?
Chester Beatty:それが面白くて、保さんがご自宅でミックスされるとき、もちろん360RAのパンニングは行っているのですがスピーカーレイアウトはステレオなんです。おそらく頭の中でイメージはできているから、あとは彫刻家のように切り出していくだけっぽいんですよね。色々と作品をご一緒してきましたが、迷いなく進んでいくのが毎回「すごいなー、なんでこれでできるのかな?」と不思議に思うのです。
吉田保:いや、迷いはあるよ。だって満足していたら終わっちゃうじゃない(笑)
Chester Beatty:弘法筆を選ばず!ってのはこういう事かと。
伊藤:そして現状として360RAのミックスをすすめる上での物理的な事やプラグインの重さなどはいかがですか?
吉田保:セッションデータの容量が大きいよね。システム使用状況でみると大した事ないから何が起きているかはわからないけど。プラグイン自体は最初使い始めたβ版からは大きく改善したよね。
伊藤:しかし、360RAコンテンツですが、まずはステレオミックスっていう点は面白いですね。保さんにとっては何も変わらないんでしょうね。音楽だから!ということで。
吉田保:そうだね。レベル調整はステレオで、そのあとはヘッドホンで360°の配置を!ってことになるよね。
Chester Beatty:保さんはご自宅のスタジオでミックスしていますが、セッションデータをネットワークで共有している状況なので、セーブしてもらえば、すぐに我々はスタジオでそれを確認できる!といった環境を構築しています。保さんから更新の連絡をもらったら、我々は別なスタジオで確認できるって事ですね。もちろん最終的にはスタジオへお越しいただいて、みんなで意見交換しながらの調整や最終的なコンシューマ向けのヘッドホンでの確認なども行います。
伊藤:現在、多くのエンジニアが行っているリモートミックスが360RAでも普通に行われているということですね。
Chester Beatty:はい、そうなります。保さんはご自身のHRTFデータを適応せず、デフォルトな状態で作業される事がほとんどなんです。一番リアルな状況、いわゆるコンシューマの方々がこういう風に聞こえているんだろうな?というところを想定しながらミックスされているんですよね。
伊藤:いわゆるAURATONE的な、スピーカーサイズが変わったらどのようにきこえるか?って感じですかね。
伊藤:そしてステレオミックスよりもオンマイクとオフマイクの使い方、マイキングの目的というのが難しそうに思ったのですが、実際にミックスしてみるとどうでしょうか? ステレオミックスではオンマイクをそのまま出せば、張り付く感じに聞こえますが、360RAは球状位置でのパンニングなので、その時点すでに距離を感じるのかと思いますが、イメージとしては通常通り平面でのバランスを360°で鳴らすのか、それとも360°の位置でのバランスを考えているのでしょうか?
Chester Beatty:そうですね、必ず球状の位置でのパンニングになるので、距離が近いっていうパンニングはむずかしいんですよね。だからこそ収録の際のマイキングの目的、位置的な関係性をはっきりさせておく必要があるかと。
吉田保:モーツァルトの時の編成の方が難しいかもね。弦と管だから。同じ距離感、位置関係を一緒にしてあげないといけなからね。
Chester Beatty:そういいながら、当たり前にフェーダーが一直線で綺麗にバランス取れているから、いつも「さすが!」って思っちゃいますよね。
吉田保:エンジニアはバランス、レベル管理が大事だからね。そうしないと次の人へ渡せなかった。ダビングは別な人が行なったりと、色々あったからね。まあ、渡すにしても最低限一直線でバランスが取れていれば、その先の作業はプラスから始めれれるからね!
伊藤:360RAコンテンツを収録から行なっている!というのが「Yoshida Tamotsu Classic」ですから、このような職人技と感性が大事なわけなのですね。
Chester Beatty:本当にそうだと思います。
伊藤:ちなみに先ほど話にも上がりましたが、低域の演出という事で今回はMarimbaのボトムも低域収録用のマイクをプランニングされて実際配置されていましたが、ミックスで使ってみていかがでしたでしょうか?
吉田保:狙った通りで非常に効果的だったよ。
Chester Beatty:やはり目的がはっきりしたマイキングは重要で、効果がしっかり360°の中で出ているのでプランニングが大事だと感じてますね。
伊藤:さらに今回でいうと、奏者の外周から演者を狙ったマイクと反対に外側を狙ったマイクを立てられていましたが、狙いなど教えていただけますか?
吉田保:結局、反射も必要だよね。実験的な意味合いもあるけど。
伊藤:広げる意味では必要でしたか?
吉田保:必要だと思うよ。外側で聞いていたら…という音色の部分もあるけど、結局反射して、戻ってきたのがサウンドだから360RAで考えると必要だよね。まだ解決はしていないけど、そういった意味でも実験的にも収録していて良かったよね。
伊藤:という事は狙ったサウンドがフェーダを上げるたびに聞こえくるってことですね?
Chester Beatty:まさにそうですね!
伊藤:逆に難しかった点などございますか?
吉田保:今回で言えばVibの高周波の位相歪みなどの調整が難しいよね。プラグインでの処理も行うけど、どのマイクにどう使うか!とか。
パンニングの問題にも関わってくるから収録時のマイクポジションをしっかり考えないといけないよね。
Chester Beatty:360RAを始めたての時に、位相問題は必ずでてくるから、どの段階でどのように整えておくかなどは考えないとね!という話はしていたんです。
伊藤:360RAはパンニングによって音色が変わりそうかな?とも思っていますが。
Chester Beatty:そうですね。変わる場合もありますね。なのでマイクポジションが大事なんですよね。収録後に教科書通りに位相をプラグインで整えても、面白くないときもありますし。
そうそう、保さんは収録の際に気づくとスタジオの中でおしゃべりしながらマイクをちょこちょこいじっているんんですよね。適当にもみえるのですが、ミックスで位相関係を解析しながら進めていくと「あーなるほど、あの時の調整があるからこのマイクの位相がそろっているんだ!」っていう発見はあっておもしろいですよね。
吉田保:適当じゃないよ!!論理もあるよ!!(笑)
伊藤:位相関係が難しいという事ですが、その部分をわかりやすくする為にも録音時の環境を良くしたいという思いはございますか? 収録時からスピーカーを13個ならべたらもっと積極的なマイキングができる!とか。
吉田保:少し質問の意図からははずれちゃうけど、エンジニアのモニターとか機材環境というより、演奏家とエンジニアの制作意図の疎通がもっと取れるような現場環境にしたいかな。
360RAなどの新しいコンテンツを制作する上で「音場を大きくしておきたい」とか「セパレートを良くしておきたい」とか思うと、例えば奏者が感じている距離より、もう少しだけ距離をとっておきたかったりするじゃない? 演奏家の立場からするとベストな演奏位置はもう少し近い方が良いというのはわかるけど。コンテンツ制作と考えたときに、同じ方向をむいて「相談できる」のが理想だよね。もちろん演奏しやすいのが一番ではあるけど、それを踏まえての相談というか調整というか。これができると、もっと積極的な配置やプランニングができて360RAが発展しやすいんじゃないかな?
伊藤:ヘッドホンとスピーカー両方で聴かせていただいた印象なのですが、ヘッドホンでは空間のつながりも良く自然に聞こえ、スピーカーでは圧を感じて楽しいのですが、少しスピーカーの存在を感じるかな?という印象だったのです。
保さんも最終的にヘッドホンで ミックスされていて、それがそのままリスナーも聞いているので、制作意図が伝わりやすいコンテンツかと思うのですが、それを踏まえて360RA制作においてスピーカーの存在はどのような位置付けで使っているのでしょうか?
Chester Beatty:これは単純に、みんなで聴きながら作業できること。あとは、例えばですが、後ろの音を聞きたい方向に後ろに行けば、確認できたりが意外と便利なんです。結局360RAといっても、みんなで、意見を出し合って、ワイワイ作るのが良いですね。
伊藤:面白いですね。以前はスタジオで作って、あとで自宅環境での確認という流れでしたが、360RAは自宅でヘッドホンで詰めたあと、スタジオで展開しながら調整! 楽しいそうですね。
最後に、SONY 360RAということなのですが、SONY製品以外でモニターした場合の音の違いなどありますか?
Chester Beatty:もちろん細かく言えば違いは出ますが、別のメーカー品で聞いていただいても360RAの効果はちゃんと出ていますので大丈夫です。
伊藤:なるほど、そうすると保さんがHRTFを使用せず、デフォルトな状態でミックスを進めている!という意味とも繋がるわけですね!
皆様、長時間にわたり、いろいろなお話しをしていただきありがとうございました。
本作品はナチュラルに聞こえますが実は不思議な配置だったりと、マイクプランからも伺える情報量の多さをシンプルに配置されている保さんらしい作品だと感じました。これからまだまだ開発が進む360RAコンテンツを楽しみにしたいと思います。
本記事の読者は、きっと「Yoshida Tamotsu Classic」を聴いてみたくなっている事と思います。
第二弾の「ライヒ」リリース、そしてその先に続く作品も楽しみにしております。
ありがとうございました。
アルバム紹介
Yoshida Tamotsu Classic [Composition I]
*Amazon MusicでのSONY 360RA再生はスマートフォンアプリにてお楽しみいただけます。PC・Mac版のAmazon Musicアプリは2021/11/16現在未対応となっております。